米軍のイラン小学校空爆について
9月19日の朝日新聞は、「国連人権理事会が、『今年2月の米軍によるイラン小学校の空爆が戦争犯罪にあたると判断できる合理的根拠がある。同時に、イラン政府による同国民の弾圧が、人道に対する罪にあたるとする根拠がある。』との調査報告書を発表した。」と報じました。
「イランに関する独立調査委員会」が、国連人権理事会第63回会合の議題として提出した9月14日付けの暫定版報告書がこれにあたるようです。(下の画像はその表紙)
報告書を見てみましょう。まず、イラン政府の国民に対する人権侵害と犯罪を取り上げています。朝日新聞の記事とは、順序が異なります。
イランでは、2025年末から今年はじめにかけて、生活改善を求める国民の声が拡大し、各都市で反政府デモが起きていました。このデモを鎮圧するために、政府や治安部隊が取った行動が、人権侵害と人道に対する犯罪にあたるとしています。
具体的には、以下の行為です:
デモ鎮圧に催涙ガス、散弾銃、自動小銃を使い、多くを殺害したこと(イラン政府は、死者3,038人、負傷25,000人、その50%が手術を要すると公表したが、調査団による調査は、死傷者数がこれを上回る恐れが高く、死者には、2歳児を含む、少なくとも221人の子供が含まれるとしている)、
負傷したデモ参加者を治療する医療施設を攻撃し、医療行為を妨害したこと、
略式裁判により活動家29人を処刑したこと、また、18歳以下の少年3人を含む70人以上に死刑判決を下し、執行する恐れがあること、
数万人を拘束し、拷問や独房監禁を加えたこと
イラン政府は、「米国とイスラエルが反政府活動を後押しして政権崩壊を狙っているため、安全保障上徹底した対策を行う」、と国民に事前通告しました。
2022年、一人の女性がヒジャーブの着用規則違反を理由に拘束され、その後死亡しました。これをきっかけに、「女性・命・自由」を求める反政府活動が起き、政府はこれを厳しく弾圧しましたが、今回の弾圧は、比べものにならないほど苛烈なものでした。
続いて、「市民への無差別攻撃として戦争犯罪に当たると判断できる合理的根拠がある」と調査団が結論した、米軍の2つの軍事行動について述べています。どちらも、米国とイスラエルがイランへの大規模軍事作戦を開始した当日、2026年2月28日に起きました。
ひとつは、ブログのタイトルにした、イラン南部の小学校の空爆です。2発の巡航ミサイル・トマホークが相次いで校舎に命中し、120人の児童を含む156人が死亡しました。(信頼できる情報筋によれば、死者は157人、そのうち123人が子供)
学校に隣接してイスラム革命防衛隊の海軍施設があり、最短距離は72mです。学校は2016年に海軍施設の敷地を利用して開設されましたが、壁により仕切られ、空爆前の衛星画像は明らかに小学校と識別可能な特徴を示しています。また、空爆後の衛星画像とビデオから、2発のミサイルが校舎の中心部に命中しており、明らかに学校を標的としたと判断できるとしています。
攻撃目標の設定に求められる入念な事前調査を怠ったこと(米国防総省の暫定調査結果が、未更新の情報に基づいて標的設定を行ったことを認めたとのニューヨークタイムズ記事を引用)を理由として、無差別攻撃にあたるとしています。
もうひとつは、同日夕刻に起きたスポーツ複合施設の空爆です。こちらも、近くにイスラム革命防衛隊の施設がありますが、衛星画像からは、明らかに一般市民向けの施設と識別可能です。子供5人を含む22人が死亡し、100人以上が負傷しました。
この攻撃に使われたのは、米国ロッキードマーチン社製ミサイルPrSMである可能性が高いと分析されました。このミサイルは、命中精度が高く、目標の上空で爆発して、およそ18万個のタングステンペレットを半径50mの範囲に高速度で飛び散らせ、人を殺傷し、建造物を破壊します。まさに無差別殺戮兵器です。
自国の政府により、あるいは、他国の攻撃により命を落とした人々や子供たちの記録です。
ブログでこの記事を取り上げたのは、太平洋戦争の末期、同様のことが日本で起きたからです。大月書店の『証言記録 市民たちの戦争② 本土に及ぶ戦禍』が伝えます。
終戦のわずか20日前の1945年7月25日午前10時、大分県津久見市保戸島の小学校を米軍機が襲い、爆弾と機銃掃射により、児童125人、教師2人が犠牲になりました。
機銃掃射をかいくぐって、爆撃で負傷した子供たちを探し回った母親たち、翌日には、四散した身体の一部を拾い集めて、そこに我が子の印を探し求めたと、同書336ページにあります。前述のイラン小学校でも、激しく傷ついた遺体が四散していたと報告されています。
同書の193ページからは、「禁じられた避難」と題して、これも終戦前の7月28日深夜の青森市空襲を取り上げています。62機のB-29が、黄燐を使った新型焼夷弾を投下、青森市街地の9割が焼失し、1,018人が犠牲になりました。
すでに、日本は制空権を失い、青森市近辺も米軍の艦載機が飛び交い、市民は危険を感じて郊外に避難を始めました。青森県知事は、市民が町を守る義務を放棄して避難することを問題視し、「家を無人にして避難する家族は、食料などの配給を停止する。帰宅期限は7月28日」(当時、食料品、生活物資のほとんどが配給制になっていました)と通告しました。
当時の「防空法」には、敵の空襲に対して市民の協力が必要なときは、市内からの退去を禁止することができると定められていました。27日深夜には、米軍が空爆を予告するビラを空中配布しています。
まさにその28日、家に戻って犠牲になった人が大勢いたのです。すでに、各都市への焼夷弾攻撃で十万を超える犠牲者がでており、敵襲に対する市民の協力といっても、粗末な防空壕やバケツリレーなどではどうすることもできないことは誰もがわかっていたはずです。帰宅命令は危険であると訴えた市民もいたようです。
イラン政府の国民への暴力行為ほど苛烈ではないものの、食糧供給の停止をちらつかせて市民を危険に追い込んだ行為は、同じように冷酷です。
戦争当事国の人々に起こる悲劇が、81年の歳月を経て繰り返されています。私たちは、これを現実として受け止めることから、次世代に受け継ぐべき未来についての議論を始めなければなりません。