『内海信之 花と反戦の詩人』(安水稔和、2007年)を読んでいます。内海信之は、姫路の隣、たつの市出身の詩人です。
この本については、読後改めて書こうと思っています。今回のブログは、信之の次男で歌人・文芸評論家の内海繁が1983年に書いた表題の本についてです。すでに、「姫路戦災の記録保存会」の制作資料、『本を通して見る姫路と戦争』の「郷土史、郷土の文化人の著書」のページで取り上げていますが、父に関する情報を得たので、一部内容も加えながら再度紹介するとともに、内海繁が訴えることに耳を傾けたいと思います。
内海繁は、生まれはたつの市ですが、太平洋戦争中は姫路で暮らしており、姫路の2度の空襲も経験しています。『姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜』(1973年)に寄せた手記で空爆の恐怖を語っています。戦後は、阿部知二を会長とする姫路文化連盟の結成に携わるなど、様々な社会運動のリーダーとして活躍しました。
内海は、『播州平野にて』の「父内海信之の回想」の章で、次のように述べています。
信之は、絶対主義と軍国主義を日本のガンとして排撃していました。私は小学生時代から、絶対主義が日本の不幸の根源であり、戦争が人類最大の罪悪であることを教え込まれたものです。
同書の181ページから200ページ(第二部 文学の斜面の第八章 「戦争体験」伝達の問題点、から、第十一章 十二月八日と文学者)で、平和を守るために語り伝えられるべき、戦争のもう一つの側面があることを訴えます。
内海は、戦時期を生き、その過酷な体験を語り伝えようとする人々、それに対して、戦後に生まれた人々がその体験談を聞くときに、「なぜ戦争に反対しなかったの、兵士として召集されたら逃げ出す、僕なら、私ならそうする」、といった意見をしばしば口にすることに接し、両者が抱く思いの間に大きなギャップがあることを認めます。そして、戦後生まれの若者の中に、戦争に対するリアルな認識が欠けていると感じます。また同時に、語る側にも、当時の日常に基づく、やはりリアルな物語を語ることを求めています。
戦争体験者の話に、日常生活の異常性についての言及が少ない(どちらかといえば、そんな時代だった、仕方なかったんだといった、あきらめにも似た言葉が多い)のは、それだけ国民への刷り込みが強かったということかもしれないが、私たち日本人は、そういった権力者からの刷り込みへの耐性が弱いのではないかと、内海は心配しています。
また、第十一章の「十二月八日と文学者」では、太平洋戦争が始まって間もない1942年2月に発行された詩歌集「大東亜聖戦詩華集・大詔の下に」を引用しています。名だたる文化人がこぞって戦争を賛美する詩、短歌、俳句を寄稿しています。それについて、内海は199ページ中ほどで以下のように述べ、戦争に関する章を締めくくっています。
これらの人の中には、(中略)、多くは「踏み絵」として作らざるを得ぬ羽目に追い込まれたり、身の安全のためアリバイづくり的に作ったり、(中略)、ということを、理解し同情することの方がむしろ必要だとさえ私は思っている。なぜなら、こういう状況になってしまってからではもうおそいのであって、それを事前にうち破ることこそが必要であるからだ。
内海は、これらの記述をもとに、日中戦争から太平洋戦争の期間、子供を含むほとんどの国民が国家総動員に疑いなく自らを投じたその理由として、国家による思想的な刷り込みが徹底的に行われたこと、また、刷り込みの効かない文化人・知識人は、暴力的な治安維持法により口を閉ざされたことを、戦後の私たちが再確認する必要性を訴えているのでしょう。それが内海の言う、戦争のもう一つの側面なのです。
戦争に関する本を読むと、太平洋戦争当時こどもや10代の青少年だった人たちの回想録にしばしば出会います。そして驚くのは、集団疎開、空腹、勤労動員、空襲、身近な人の死など、過酷な経験をしながらも、ほとんどの人が、「お国のため」を思い、国が発する情報を信じ、終戦の日まで、日本が勝つことを信じて疑わなかったと証言していることです。(戦争の犠牲になった人々の思いを知ることは、もちろん叶いませんが、生き残った人々と同じであったと思います。少なくとも、死の直前までは)
これが、内海の言う、「こういう状況」なのでしょう。そこには、国家総動員で戦争を遂行するために、国家が年月をかけて周到に組み立てた仕掛けが働いていたのです。「権力者の刷り込みへの耐性を強化する」ために、その仕掛けがどういうものだったかを、私たちはもっと知らなければなりません。そして、拘禁刑などを含む、ともすれば暴力的な統制強化の動きについても、敏感でなければなりません。